みなさんなじらね。さんにんにちです。
今回は他人にイライラした時に私が考えていることを、ひとりごととして書いてみます。
「どうしてこんな簡単なことができないの?」
例えば、同棲中の彼が使ったものを元に戻さず出しっぱなしにしている時、食事の後で使った食器を洗わずに放置している時。私は使い終わったものは常に定位置に戻すのが当たり前で、食器は使い終わったらなるべく早く洗いたい派だ。だから、彼がしょっちゅう物をなくして散らかった部屋を探し回っていたり、汚れが乾いて落ちにくくなった食器を苦労して洗っていたりするのを見て「片付けも洗い物もその場ですぐ済ませてしまえばいいだけなのに、どうしてそれができないのだろう?」とイライラしてしまう。
職場でも、例えば後輩に簡単な作業をお願いしたつもりだったのに、なかなか作業が進まず時間がかかったり、出来上がった成果物がミスだらけだったりすると、つい「こんな簡単なこともできないの?」と思ってしまうことがある。
みなさんもそんな風に、自分が当たり前にできていることができない人を見て「どうしてこんな簡単なことができないの?」とイライラしてしまうことがないだろうか?
もちろん私も「他人と自分はそれぞれ違う環境で生まれ育ち、別々の価値観を持って生きているわけで、何を当たり前だと思うかや、何が得意で何が苦手かは違っていて当然だ」ということは分かっている。頭では分かっているんだけれど、自分が急いでいる時や、ストレスが溜まっている時に「自分の思う当たり前」ができない他人を見ると、イラっとしてしまうのだ。
そう思っている自分はどうだろう?
私の場合、特に生理前で神経質になっている時、そうした他人の行動が気になってモヤモヤやイライラがふくらんでしまいがち。そんな時は「そう思っている自分はどうだろう?」と考えるようにしている。
他の記事でも書いているように、私は高校時代に拒食症になってから「食べること」に恐怖を感じ、なかなか食べられない時期が何年も続いた。空腹を感じて、食べたいと思ったものを、食べたいときに食べたいだけ食べる。人間が生命を維持する上で必要な行動であり、物心つくころから多くの人が当たり前のようにやっているであろうことが、私にはとても難しいことだった。
拒食症の症状がひどくて、母が用意してくれた食事を食べられずにいた時、母からは「どうして小学生でもできるようなことができなくなっちゃったの?」と言われ、父からは「そんなに食べたくないなら、食べずに飢え死にすればいい」と言われてこの上なく傷ついた。(当時、どんどん痩せていく私に何とかして食べさせようと必死で、とっさにこんな言葉が出てしまったわけで、私を傷つけようとして言ったのではないことは分かっている。両親は今では私のことを信じて克服を見守ってくれていて、私にとってかけがえのない存在だ。)
そのことを思うと、自分が当たり前だと思っていることを他人が全然できなくても、理解してあげたい気持ちになる。あの頃、自分でもどうして食べることができないのか分からなくて、言葉で説明することもできず、誰からも理解してもらえない苦しみを抱えていた。他の人も同じように、本当はできるようになりたいと思っていることが、なぜか自分にはできなくて悩んでいるのかもしれない(もちろん人によって価値観は異なるので「できるようになりたい」とすら思っていない可能性もあるが)。そう思うことで、モヤモヤやイライラが少し収まり、心が穏やかになる気がする。
他人を許せるようになれば、自分を許せるようになる!
「どうしてこんな簡単なことができないの?」というイライラが湧いたときは「自分も周りが当たり前にできていること(食べること)ができなかった。あの人も実は同じなのかもしれない。」と思うことで他人を許せるようになる。そうすることで、できない(できなかった)自分も許せる気がしてくる。
だから、これからも私は他人にイライラした時は、その人のためというより、自分のため(自分を許し、心穏やかに過ごすため)にその人を許してあげたいと思う。
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