みなさんなじらね。さんにんにちです。
今回は拒食症時代の自分ルールと三日坊主についてのひとりごと。気軽に読んでいってください。
拒食症時代、苦しんだ自分ルール
私は子どもの頃から負けず嫌いで、責任感が強くて、完璧主義な性格。「努力は裏切らない」とか「継続は力なり」といった「何事も頑張っていればいつか報われる」的な言葉が好きで、一度やると決めたことはけっこう続けられるタイプだ。この性格のおかげで学生時代は勉強も部活も途中で投げ出すことなく続け、自分なりに成果を出すことができていた。
その一方、この性格は拒食症になってからは数々の「自分ルール」を生み出し、それらが手放せず散々苦しんだ。拒食症で痩せていた頃にこだわっていた自分ルールは主に以下のような感じ。
・食べたものは全て記録する(レコーディングダイエット)
・卵は1日1個まで
・1日3食のうち少なくとも1回はお米を食べる
・同じ食べ物を続けて食べてはダメ(昨日食べたのに今日もラーメン、とか)
・食事には1時間以上時間をかけて食べる(食べる量が少なくても、用事があって時間がギリギリでも)
・毎日決まった時間、内容で運動(筋トレやストレッチ、散歩)をする
他にもいろいろあったと思うが、細かすぎて思い出せないようなことまで、当時は1つ1つ律儀に守り続けていた。今思い返すと、拒食症だった頃の私は自信がなくて、自分ルールを守ることでしか「自分はちゃんとしている」という実感を得られなかったのかもしれない。そして、それはつまり「自分ルールを守れない=自分はダメな人間」という考えにつながり、どんなに苦しくても自分ルールへの依存から抜け出せない状態になっていたのだと思う。
「継続すること=すごい」「三日坊主=だらしない」?
世間的には「努力を継続すること」は称賛されやすく、継続できないと「三日坊主」と言われ、あまり良くない印象を抱かれることが多い。特に学生時代は「最後まで諦めない」「粘り強く続ける」といった言葉が(主に大人たちに)好まれる気がする。そして「いい子」を演じていた私はそんな言葉を何度も繰り返して実践してきた。
でも、拒食症になり、自分ルールを守り続けることから抜け出せなくなってから、本当に継続することだけが偉いのだろうか?と思うようになった。(もちろん、私の場合はそもそも継続することの方向性が間違っていると言われればそれまでだが。)
自分ルールに苦しんでいた当時の私は「三日坊主」に憧れたことさえあった。「ダイエット頑張る!」と宣言していた友人が甘いお菓子の誘惑に負けて「ダイエットは明日から本気出す♪」と言うのを聞いた時。毎日お弁当を作るために弁当箱を買ったという職場の同僚が結局なかなかお弁当を作らずにいつもコンビニで買ったお昼を食べているのを見た時。あんな風に、その時の気分でポイっと自分で決めたルールを手放せてしまう彼女たちがうらやましかった。
「三日坊主」も才能だ
決して継続することに価値がないとか、三日坊主が素晴らしいとか主張したいわけではない。私だって、努力を継続できる自分の性格を気に入っているし、この性格だからこそこれまでの人生で得られたことがたくさんあるから、誇りでもある。
ただ、何でもかんでも「やると決めたらやる(たとえどんなことがあっても)」だと自分を苦しめてしまうことがあるから、時には肩の力を抜いて「やるって言ったけど、やっぱやーめた」と手放すことも大切だと思う。そして、それができたということは「今」の自分の心とからだの声をちゃんと聞いてあげられたということなのだから、自分を責めるのではなく自信を持ってもいいのではないだろうか。
こんなことを書くと「三日坊主」の言い訳で、ただ開き直っているだけに感じられるかもしれない。
まあ、でもひとりごとだから別にいいか(笑)。少なくとも私は「努力を継続すること」が才能なら「三日坊主」もまた才能だと思う。そう思っていた方が人生楽しそうだから、これからもそう信じて生きていこう。
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