みなさんなじらね。さんにんにちです。
今日は拒食症克服に関連してちょっと思ったことがあったので、ひとりごととして書いてみます。
帰省した時のある出来事
この前のGWに実家に帰省した時のこと。父も母も私が帰るといつも喜んでくれて、ローカルでおすすめのお店に連れて行ってくれたり、地元食材を使った郷土料理を作ったりしてとにかくご馳走してくれる。ちなみに、2人とも私が拒食症だった高校時代のように、私の体重が増えるようになんとしても食べさせようとしてくる感じは一切ない。私が一人暮らしを始めてからの数年間で、父も母も拒食症克服については「口出しせず見守る姿勢」になったらしい。そして今となっては「久しぶりに帰ってきた娘に、とにかく美味しいものをご馳走したい」のが伝わってくるので、私も幸せと感謝の気持ちでいっぱいになる。
そんな中、ふと気づいたのが、両親の食べる量が少なくなっているということ。もともと私の家族は小食気味だと自覚はしていた。でも、お昼に(大盛りとかではなく)普通のラーメン一杯食べただけで「お腹いっぱいで夕ご飯はそんなに食べられないから軽くしよう」と言っていたり、私が(これまた普通の量の)定食を一人前食べている隣で、父と母が同じ定食一人前を2人で分けているのを見て、さすがの私も「そんなに食べられなくなっちゃったの?」と驚いてしまった。
いつか拒食症以外の理由で食べられなくなる日が来るかも…
「年をとると若いころのようにたくさん食べられなくなる」とは聞く。そうはいっても「美味しいものや好きなものなら別腹で食べられるものなんじゃないか?」と思っていた。だから、両親が「これは本当に美味しいからぜひ食べてほしい」と私にすすめながら、本人たちは同じ量を一緒に食べられないことがショックだった。実家で過ごしていた高校時代は、あんなに私の食べる量の少なさを心配していた両親が、今度は私から食べる量を心配されているという状況に、仕方がないとは思いつつ少し切なさも感じた。
私は拒食症克服のために食べる量を増やそうと努力してきた。でも、そのうち拒食症以外の原因(加齢や、なんらかの病気)によって本当に食べたいものが食べられなくなってしまう日が来るかもしれない。もちろん「年をとると食べられなくなる」の程度には個人差があると思うが、その要因に遺伝が含まれているのなら、私も将来両親のようにますます小食になってしまう可能性がないとは言い切れない。
そうなってしまった場合、果たして私は「こうなる前にもっと食べたいものを食べていればよかった・・・」と後悔せずにいられるだろうか?
「食べられるうちに、食べる」のも大切かもしれない
結局何が言いたいかというと、今回の出来事をきっかけに「年をとると食べられなくなるから、若いうちにたくさん食べておいた方が良い」という言葉も、聞き流さず心にとどめておこうと思った、ということである。
今の私は拒食症克服のために「食べたいものを食べたいだけ食べられるようになる」ことを目指しているが、きっと拒食症以外にもそれが難しくなってしまう原因はたくさんある。だから、やっぱり「食べられるうちに、食べる」というのは拒食症に関わらず、後悔しない人生を送るために大切なことなのかもしれない。もちろん、人によって幸せの価値観は異なるので一概には言えないが、少なくとも私は美味しいものを食べることに幸せを感じることが多いから、なおさらそう言えるだろう。
拒食症克服のために食べるのも、「食べられるうちに、食べる」のも、「今」の自分を大切にして後悔のない人生を送るという点では同じ。そう思ったら、また少し克服を継続することに前向きになれた。
コメント